80万ヒット記念リクエストエントリ・神出鬼没の悪七兵衛景清さんの伝説を訪ねて近江の景清道から清水まで 5月は寛治師匠、6月は玉様が阿古屋を弾いてくらはります。
近江八幡駅の南の田んぼのあぜ道
正面は繖山(きぬがさやま・標高433m)
道をたどることはできませんでしたが、身を寄せていた近江八幡の旅庵寺から安土の近江風土記の丘の桑実寺まで、眼病平癒の祈願のため通ったとされています。たぶんこんな風景の中を、日参しはったことでしょう。
景清は、源平の合戦の時代、平家に仕えて戦い、都落ちに従ったため一般的に平景清と呼ばれていますが、藤原秀郷の子孫の伊勢藤原氏で、藤原景清又は伊藤景清ともいわれます。勇猛で名を馳せ通称、悪七兵衛の異名を持ちます。
上総の国から日向の国まで全国に残る伝説から、様々なジャンルの芸能まで登場する超人気スターであられます。屋島の合戦での源氏の美尾屋十郎との錣引き、謡曲「景清」、「大仏供養」、浄瑠璃「出世景清」、「壇浦兜軍記」、「嬢景清八島日記」、地歌舞伎「六千両後日文章」、落語「景清」等々。
京都の景清ゆかりの地はすぐでしたが、近江八幡市の景清道は厳しかったです。↓よろしかったらポチッとお願いしますm(_ _)m。

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清水寺
清水寺は、悪七兵衛景清が源頼朝の命を狙って失敗し捕えられたとき、「源氏の世は見られぬ」と自らの目玉を刳り抜き奉納したという伝説があります。
景清爪形観音
清水寺の境内地には、景清が自らの爪で石を彫って作ったと言われる景清爪形観音が今も残っています。右の「くわんおん」とあるのがそれです。
清水二年坂
五条坂の傾城阿古屋は、景清と深く言い交わし、子までもうけた仲。清水二年坂には阿古屋茶屋という料亭があります。町並みは大正昭和の風情ですが、清水の参詣道には、古くから茶屋があったことが偲ばれます。
六波羅密寺の阿古屋塚
平家滅亡後、残党を追捕するため、鎌倉方の代官畠山重忠が景清の恋人阿古屋を六波羅探題に連行しました。行方を知らぬ存ぜぬと決して口を割らない阿古屋に、重忠は、三味線、琴、胡弓を弾かせます。曇りのない音色に疑いは晴れ、重忠は阿古屋を釈放します。
仲源寺~目やみ地蔵~
大和大路四条東入る南側の目やみ地蔵で有名な仲源寺へも寄ってみました。写真にありますように洛陽三十三所観音霊場、第十六番札所です。鎌倉時代、安貞2年(1228)、鴨川が氾濫したとき地蔵菩薩を安置したのが、起こりで、当初、雨やみ地蔵と呼ばれていましたが、「雨止み」が転じて「目疾(めやみ)」になったとされています。眼病治療に霊験があるといわれています。
景清さんは参ることはなかったでしょうが、落語の定次郎さんは清水寺だけでなくこちらにもお参りしはったかもしれません。
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コメント
悠さま
景清道は田んぼの畦道や山道とありました。ここでも顕彰されたはります。ワタクシの地元は源義仲さんですし、近江源氏という一族もおられます。源平に分かれて戦っておられたことでしょう。
遅くなりましたがなんとか間に合わせました。
投稿: とみ(風知草) | 2012年4月23日 (月) 08時11分
旅庵寺に身をよせてはったんですね、景清はん。
桑実寺は、以前尋ねたことがあります。寺の門に、本堂まで「4丁」って書いてあった気が。それで、初めて「丁」の意味をしりました(^^)
投稿: 悠 | 2012年4月22日 (日) 15時49分