山紫水明処と新島襄旧邸・京都人より京都をよう分かったはる男たちの住処
29日は,上京区鴨川右岸の山紫水明処と新島襄旧邸を中心にまち歩きをしてき
ました。この日は国民文化祭京都の初日で、まちを挙げて着物着用を推奨されてました。建築フェチの集団は奇異に映ったことでしょう。
しかし、茶室や邸宅の見学には足元は草履がよろし。ブーツ履いてきたお方はえらい難儀したはりました。
山紫水明処から東山三十六峰を臨む。東山三十六峰を位置づけられたのは、頼山陽さんでした。京大病院や周辺の建物が東山の稜線を遮っています。護岸の樹木も育ち過ぎてますね。
『山紫水明処』は、丸太町橋の北側、鴨川の西岸に面し、頼山陽の書斎兼茶室として使われた建物です。
頼山陽(安永9年〜天保3年・1780〜1832年)は、江戸時代後期に活躍した儒学者・詩人・歴史家です。その著作は、明治維新に際して尊攘派の志士たちの精神的な支えとなりました。
山陽は、文化8年(1811年)、広島から32歳で京都に出て以後、塾を開くなどして生計を立てつつ転居を繰り返しました。しかし、家々が建て込み、東山への眺望が無い場所に満足できなくなった山陽は、より東の地に移り住むべく土地を探し、ついに6度目で眺望絶佳なこの地に文政5年(1822年)に移り、この屋敷地に文政11年(1828年),新たに書斎兼茶室を造営し、「山紫水明処」と名付けました。以後、『日本外史』などの執筆を行い、『日本政記』をほぼ完成させました。
茶の湯にも精通していた山陽は、抹茶より煎茶を好んでいたようです。書斎兼茶室だった「山紫水明処」も、形式にとらわれない生活・接客の空間として、煎茶の用に適した明るく開放的な造りとなっています。
こちらは、寺町丸太町上るの『新島襄旧邸』
ボストンの友人J.M.シアーズの寄付によって建てられました。
この場所は同志社英学校が開校した際に仮校舎として借家した高松保実邸の跡です。外観はいわゆるコロニアルスタイルの洋風ですが、造りの基本は和風寄棟住宅です。間取りは日本的な田の字型であり、三方にべランダをめぐらし窓には鎧戸をつけ、白い壁面に茶褐色の木部を見せる簡素な二階建住宅です。
設計者・施工者とも明らかではありませんが、当時の同志社教員で医師・宣教師でもあったW.テイラーの助言を得ながら、新島襄が設計したとも伝えられています。
日本人が建てた和洋折衷の木造二階建て住宅として、また、同志社創立者の旧居として価値が高く、昭和60年(1985)に京都市指定有形文化財に指定されました。
再来年は,NHK大河ドラマ「八重の桜」で新島八重さんが主人公となります。お客様が大挙してこられることが予想されますので,2階は見学を中止する方針だとか。御早目のご見学を…。
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