25万ヒット記念リスエストエントリ・俊寛謀議の地・鹿ヶ谷山荘跡を訪ねてトレイル
25万ヒット記念リクエストということで,星月夜に逢えたらのムンパリさまより,俊寛というお題を頂戴しましたので,平家物語に詠われ,後世の能,浄瑠璃,歌舞伎,小説等の主人公となった俊寛僧都ゆかりの地を訪ねました。
平家物語にはこうある。
平家物語 上巻 巻十 「鹿の谷の事」(抄)
東山鹿の谷といふ所は、後ろは三井寺に続いて、ゆゆしき城郭にてぞありける。それに俊寛僧都の山荘あり。
かれに常は寄り合い、平家亡すべき謀をぞ運らしける。
或夜法皇も御幸なる。故信西入道の子息浄憲法印も御供仕らる。
「平家に非ずんば人にあらず」といわれた時代。
鹿ヶ谷事件は,治承元年(1177)6月1日,多田蔵人行綱の密告によって平家妥当の密議が発覚し,平家一門が武装集結のうえ,関係者を粛正したことをいう。法勝寺の執行(しぎよ)であった俊寛の鹿ヶ谷の山荘で,俊寛,西光(藤原師光),浄憲(故信西入道の子息),藤原成親・成経父子,平康頼らが,後白河法皇も招き,平家打倒の談合をしていたことが,明るみになったのだった。法皇は鳥羽殿に幽閉,西光は惨殺,俊寛,平康頼,藤原成経の3人は鬼界ヶ島に流された。後に,平康頼と藤原成経は,特赦により都へ帰るが,俊寛は島に残され憤死する。鹿ヶ谷(鹿の谷)は,京都市左京区の如意ヶ嶽西麓一帯の地名で,法然院や安楽寺の名刹,冷泉天皇御陵,ノートルダム女学院等があり,哲学の小道も整備された歴史・文教スポットだ。霊鑑寺の門前に,俊寛の山荘の案内板(写真)がある。正確な場所は不詳のようだが,左京区鹿ヶ谷御所ノ段町の北部の台地付近,かつて山中にあった如意寺の跡,楼門の滝のそばに石碑があり,「俊寛僧都忠誠之碑」(写真)と刻まれている。
如意寺は滋賀県大津の三井寺(園城寺)の別院らしく,この広大な山中に三井寺の堂宇が点在していたことが伝わっている。
平家全盛の世に,計画性も無く無謀とも言える陰謀だったが,合力と兵力を期待する三井寺と直結するルートというのが,ポイントで,後日,後白河法皇の皇子以仁王が決起に失敗したときも,三井寺に逃げ込んでいる。決起は,一瞬で瓦解したが,源平合戦の発端となったことは,平曲が語っている。
今は,ハイカーすら,たまさかにしか通ることもない普通の里山となっており,これからは,まむし(^^ゞ,スズメバチ(O.O;)(o。o;),ヤブ蚊(\_\;の季節であるため,鹿ヶ谷事件のシーズンに合わせて,5月末に訪ねることは,全くオススメできない。バス停5,32,203,204,93系統真如堂前から徒歩2キロ程度(後半の1キロは山道(゜〇゜;))。
さらに,滋賀県大津市側には長等山に着くが,当地の円満院で4日発覚した女性の死体遺棄事件は未解決で,周辺は厳戒態勢が敷かれている。少なくとも事件解決まで,鹿ヶ谷→三井寺は避けるべきだ。
円満院は、国の史跡・名勝指定の庭園などが有名。一帯は、三井寺や琵琶湖疏水、歴史博物館などもある観光地になっている。
俊寛が執行を務めた「法勝寺」は,ほぼ,京都市動物園園域に相当し,バス停5系統岡崎法勝寺町前には石碑が残されている。周辺は,閑静な住宅地と,平安神宮,岡崎公園,美術館などの公共施設が立ち並んでいる。施設のあちこちに,当時,軒を連ねていた「勝」の付く6つの寺「六勝寺」の跡の標識がある。
さて,鹿ヶ谷の地は,ひょうたんの形をした大型の鹿ヶ谷かぼちゃ(ひょうたん南瓜)の産地である。文化年間,津軽の国より持ち帰ったかぼちゃの種子を鹿ヶ谷の住人,庄兵衛と又兵衛が連作するうちにひょうたん形なったといわれている。味が淡泊で,最近では食用よりも,むしろ珍しい旬の飾りものとして評価されている。そぼろあんかけが料理の定番のようだ。7月25日,安楽寺で供養が催される。
最後に,俊寛ゆかりの主な作品は以下のとおり。今年の松嶋屋歌舞伎鑑賞教室を拝見してから,再度,エントリを立てることとする。平家物語には,都では人もなげな傲岸不遜,流人となってからも反省のない性狷介な人物として描かれているが,後世の優れた芸術家たちは,与えられた運命の苛酷さに思いを馳せ,人間の精神の限界に挑む作品群を残しておられる。
世阿弥 俊寛 (能)
近松門左衛門 平家女護島(人形浄瑠璃)
芥川龍之介 俊寛 (小説)
菊池寛 俊寛 (小説)
| 固定リンク
「文化・芸術」カテゴリの記事
- 宇治木幡の松殿山荘を訪ねました。(2014.03.06)
- 近江兄弟社学園ハイド記念館他(2013.09.16)
- こんなまちなかに名刹が…木屋町二条下る「廣誠院」を見学してきました。(2013.09.15)
- 米朝一門落語会・吉例7月7日 in 京都四條南座(2013.07.10)
- 気になった近代建築・紫明通の紫明会館。昭和初期のアメリカ経由のスパニッシュ♪(2013.06.20)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
保元の乱では源義朝と共に後白河天皇側について勝利をおさめ、後白河の側近・信西と結び政界に進出。
投稿: Kelly | 2014年3月 6日 (木) 14時27分
>藤十郎センセ
プロからコメント頂くとは恐縮です。
芸術家の想像力を刺激する俊寛僧都。歴史と物語の虚実の皮相に思い致すばかりでございます。
新緑ももう深緑になっていました。まむし,スズメバチ,ヤブ蚊の恐怖。しかし,良い山歩きでした。
投稿: とみ | 2008年5月 7日 (水) 22時16分
いやぁ、おとみさんのリクエスト歩きは濃いですね。重厚というのか、威風堂々というのか。
法然院は谷崎や福田平八郎、河上肇その他の著名人の墓が居並ぶお寺ですね。私もよく訪ねます。
哲学の道は葉桜が美しい時期だったでしょうか。
投稿: 藤十郎 | 2008年5月 7日 (水) 14時53分
>ムンパリさま
早速の御高読ありがとうございました。
なんせ山道ですので,事前調査と日程の設定に時間がかかり遅くなりました。
平曲では,後日譚として,有王が師を訪ねて喜界ヶ島に出向いていますので,弟子に慕われておられたようです。
三井寺との関連が,こうして調べて歩かなければ,認識してませんでした。
そもそも,源氏と平家は貴族が悪僧の狼藉に対抗して育成した武装集団ですから,貴族としては平家の横征を飼い犬に手を咬まれた感覚だったようです。
また,三井寺は延暦寺にやられっぱなしで幾度も焼き討ちにあっています。以仁王が宇治をさして落ち延びたのも,延暦寺を味方にできなかったからとか。
とはいえ,歌舞音曲,遊び好きの法皇の側近ですから,只の鬱憤晴らしの戯言を多田に密告されたのかも…。いずれにしても,法皇にとっては使い捨ての駒だったことでしょう。
投稿: とみ | 2008年5月 7日 (水) 12時27分
とみさま。
細やかな取材と素晴しいレポありがとうございます。
三井寺との関係等、事件の背景については今回初めて知った事ばかりです。計画は失敗に終わったのに、鬼界ヶ島から一人だけ帰れなかった事で文学の題材となり、舞台上の有名人になってしまうとは皮肉なものですね。石碑を見に私も一度行ってみたいと思います。
ミッション遂行お疲れ様でございました!!
投稿: ムンパリ | 2008年5月 7日 (水) 07時51分