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2008年1月12日 (土)

IZA!【文楽を歩く】仮名手本忠臣蔵 仇討ちの決意胸に秘め

P1010151サンケイIZA!アートのカテゴリー・1月10日のアップである。
菊と紅葉の残る晩秋,人形遣いの桐竹勘十郎さん(大星由良助),吉田玉女さん(加古川本蔵)とともに,文楽ゆかりの地・京都市山科区大石神社で取材されたようだ (ライター亀岡典子さん)。
本家が消えて無くなると悲しいので,恐縮ながら全文転載させていただく。写真はワタクシが昨年夏,何気に立ち寄ったときのもの。
九段目は,義太夫の名作中の名作「仮名手本忠臣蔵」中最も重い曲で,舞台も,閑居に18人の人形遣いさんと6体の人形というすし詰め状態となる。歌舞伎においても,立役・本蔵,立女形・戸無瀬,花形・力弥,若女形・小浪,加役・お石,敵役・由良助と役割がくっきりし,しどころも多く繰り返し上演される。
山科閑居で起こった悲劇は,忠義のためでなく娘のために命を投げ出す本蔵,なさぬ仲の娘への義理を貫く戸無瀬という家族愛の復権が描かれている。親子の別れ,夫婦の別れの悲しみはクライマックス。それでも真義の貫徹のため立たねばならない苦悩の人由良助はきっぱりと旅立つ。
さて,周辺は新興住宅地で,回遊性に欠けるが,岩屋寺,勧修寺,醍醐寺,小野など京都東郊の観光と組み合わせて訪れるとよいかも。JR山科駅から京阪バスで大石神社前下車。

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文楽

【文楽を歩く】仮名手本忠臣蔵 仇討ちの決意胸に秘め

〈風雅でもなく洒落でなく、しょうことなしの山科に由良助が侘住(わびずま)い…〉

P1010149 雪の降り積もった早朝、華やかな祇園の茶屋から、まだ酒の残る風情で山科の侘住いに帰ってきた大星由良助(=大石内蔵助)。しかしその胸には仇(あだ)討ちの決意が固く秘められている-。
 文楽屈指の人気作『仮名手本忠臣蔵』は、江戸・元禄期に起きた赤穂浪士の討ち入り事件をもとに、仇討ちにかかわるさまざまな人たちの苦悩や情を虚実ないまぜに紡いだ大河ドラマ。時の権力者をはばかって、登場人物の名前も時代設定も変えられてはいるが、九段目「山科閑居の段」で、由良助が仇である高師直(=吉良上野介)の目をくらますため、山科に閑居していたという設定は史実と同じである。
 山科は京都市の南東に位置するベッドタウン。しかし内蔵助の遺品が納められた岩屋寺やゆかりの大石神社が建つあたりはまだ、静かな佇(たたず)まいを見せていた。
 「春はしだれ桜、秋は紅葉がきれいなんですよ」。大石神社にやってきた近所の人がにこやかに教えてくれたが、いまは冬、風は冷たく、肌を刺す。
■二家族の悲劇の物語…もっとも重い曲に
 大石内蔵助ゆかりの大石神社は京都市山科区の緑の木々に囲まれた稲荷山のふもとにある。冬のせいか観光客はまばらで、鳥居をくぐって振り返ると、民家やマンションが立ち並ぶ山科の町並みが眼下に広がった。
 「でも、内蔵助が生きていた当時はまだまだ鄙(ひな)びた田舎だったんでしょうねえ」。文楽人形遣いの桐竹勘十郎さんと吉田玉女さんは内蔵助の生涯に、ふと思いをはせた。
 実在の内蔵助が京都の山科に閑居していたのは元禄14年(1701年)6月から1年余り。仇と狙う吉良上野介の目をごまかし、じっくり仇討ちの準備と機会を、この山科でうかがっていたのである。
〈人の心の奥深き山科の隠れ家を訪ねてここに来る人は…〉
 文楽の『仮名手本忠臣蔵』の九段目『山科閑居の段』は、史実をもとにしながらも、大星由良助(=大石内蔵助)の家族と、家老・加古川本蔵の家族という二家の悲劇の物語である。
 本蔵の主君は、由良助の主君・塩谷(えんや)判官と同じく饗応役の桃井若狭助。しかし本蔵は若狭助のために饗応役の指導をする師直(もろのお)にわいろを贈ったばかりか、判官が殿中で師直を斬りつけたときも抱き止めて本懐を遂げさせなかった。
 しかし、由良助の子息・力弥と本蔵の娘・小浪は許婚の間柄。本蔵は自分のしたことに痛惜の念を覚え、死を覚悟して山科に由良助を訪ねたのである。
 文楽では『忠臣蔵』の九段目はもっとも格が高く、重い曲とされている。由良助役も主役中の主役で、長く故吉田玉男の独壇場であった。
 「やはり曲の貫目に負けないよう遣うことを心がけています」。一昨年9月の東京・国立劇場の通し上演で、初めて九段目と討ち入り後の「花水橋引揚の段」の由良助を遣った勘十郎さんと、そのとき本蔵を遣った玉女さんは声をそろえた。

 大石神社が建てられたのは昭和10年。討ち入りが行われた12月14には毎年、義士祭が行われている。(文・亀岡典子)

【文楽を歩く】仮名手本忠臣蔵 家族・恋人たちの悲劇交錯

 その寺は、急な石段を三十数段登った先にあった。石段に影を落とす木々の枝、寺の裏には竹林が広がり、しみじみとした詩情が漂う。
 京都市山科区の西の端にある岩屋寺。大石内蔵助が隠棲したのはまさにこのあたりという。
〈『これ小浪。アレあれを聞きや、表に虚無僧の尺八、鶴の巣籠(すごもり)。鳥類でさえ子を思うに、科(とが)もない子を手にかけるは因果と因果の寄り合い』と…〉
 『仮名手本忠臣蔵・山科閑居の段』は、ここ山科の大星由良助(=大石内蔵助)邸を、由良助にとって憎い相手、加古川本蔵の後妻・戸無瀬と娘・小浪が訪れるところから始まる。そしてもうひとり、虚無僧に姿を変えてやってきたのは、ほかならぬ本蔵。
 このとき本蔵の吹く尺八の曲が「鶴の巣籠」。その音色にハッとする戸無瀬。鳥の親子の情愛につい自分たち母子の姿を悲しく重ね合わせたのである。
 『忠臣蔵』は男たちの命をかけた忠義の陰で、さまざまな家族、恋人たちの悲劇が交錯する。岩屋寺の静かな境内に佇(たたず)んでいると、300年前の人間たちの思いがまだそこにとどまっているような気がした。
■忠義より娘のために捨てる命
〈『加古川本蔵が首、進上申す。お受け取りなされよ』〉
 こう言いながら笠を脱ぎ捨てた人物は虚無僧に化けた加古川本蔵。高師直(こうの・もろのお)に賄賂(わいろ)を贈ったばかりか、塩谷(えんや)判官が殿中で師直に斬りつけたとき、判官を抱き止めて邪魔をした人物である。
 その本蔵がなぜ、由良助が閑居する山科にまでやってきたのか。
 『仮名手本忠臣蔵』の九段目「山科閑居の段」は、前半の本蔵の妻戸無瀬(となせ)と由良助の妻お石(いし)の確執から一転、後半は本蔵と由良助の男たちの骨太のドラマとなる。
 実は、由良助の息子・力弥と本蔵の娘・小浪は許婚の仲。しかしお石は、はるばる山科まで祝言のためにやってきた戸無瀬と小浪に、“追従武士の本蔵と二君に仕えぬ由良助では心の釣り合いが取れぬ”といったん冷たく断る。しかし死ぬ覚悟を決めた母子にお石は、「祝言は認める、その代わり本蔵の首を祝言の引き出物に」と条件を出すのである。
 そこへ虚無僧に化けてやってきた本蔵は力弥にわざと自らの腹を槍で突かせる-。
〈『忠義にならでは捨てぬ命、子ゆえに捨つる親心、これこれ推量あれ、由良殿』〉
 自分の行動が判官を切腹させ、娘の幸せも奪ったと後悔していた本蔵は、かわいい娘のため自分の命を捨て、由良助に師直の屋敷の案内図を渡すのである。
 「本蔵はあれからずっと、罪の意識にさいなまれていたのでしょうねえ」と文楽人形遣いの吉田玉女さん。「山科へは最初からすべての覚悟を決めてやってきたのでしょう。本蔵の気持ちを想像するとつらくなりますね。でも彼の決意が由良助らの仇討ちを助けるわけですから本望だったのかもしれません」
 岩屋寺の境内に鄙(ひな)びた風情の茶室があった。聞けば、実在の大石内蔵助の屋敷の廃材で作られたものだとか。
 討ち入りの日はいよいよ近い。
 文・亀岡典子

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コメント

>はるきさま
そうでしたか。今年もよろしくお願い致します。
山科でも毎年義士行列があります。山科から伏見橦木町に繰り出しておられたのですから,内蔵助さんはタフであられます。
登録出来るのですね。ワタクシもしようっと。
大阪松竹座で沼津を見てから,記事にするかも…。
深草の少将が小野小町,深草小野間を百夜通えば駄目でしょう。

投稿: とみ | 2008年1月12日 (土) 22時36分

とみさん、書き込みは今年になって初めてです…恐縮ですm_ _m
iza!は会員登録してるのですが、この記事は情けないことに知りませんでした。産経紙面では関西版限定だったりして??教えて下さって有難うございます。
亀岡さん、記者ブログ開設されればいいのにな。

去年は文楽との御縁がありませんでしたが、来月の「義経千本桜」は行きますよ!!

投稿: はるき | 2008年1月12日 (土) 21時37分

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